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滝台野薬園

なぜ薬園が作られたか

船橋市薬円台が、江戸時代に薬草園だったことは有名であるが、設置の背景はあまり知られていない。
 
外科手術と抗生物質がなかった江戸時代、病気の時に最も頼りとしたのは漢方薬であった。漢方薬の本場はいうまでもなく中国で、オランダと共に「鎖国日本」の数少ない貿易相手国であり、高価な漢方薬種が主な輸入品であった。また対馬藩を介しての朝鮮との貿易での薬種(朝鮮人参)輸入は、より高い比重を占めていた。
 
元禄年間以降、幕府財政が悪化すると、悪化の一大要因である輸入薬種から国内産薬種に切り替える必要が叫ばれるようになった。
 
一方、元禄から享保期には、天然痘・赤痢・はしか・熱病等の伝染病の大流行が度々起こり、大量の薬の需要が生じた。そうした背景があって、享保年間に薬園の整備・開設が相次ぐ。享保5年(1720)の駒場薬園開設、同6年の小石川薬園整備拡張と続き、同7年に現船橋市薬円台に滝台野薬園が開設されたのである。
 
つまり、滝台野薬園は、享保改革の一部として設置されたものであり、かつての郷土誌に記されたような「英邁な将軍、吉宗による殖産興業の一環」という単純な理由での設置ではなかったのである。

滝台野薬園の成立経緯

幕府は駒場・小石川等の薬園を開設整備する一方、もっと大規模な薬園の造成を企て、その場所を広大な小金野に求めた。小金野は幕府馬牧の小金五牧のある原野の総称で、その内の下野牧の一角が候補地になったのである。
 
享保7年(1722)4月4日、滝台野薬園の開設が正式に決定し、幕府御医師並丹羽正伯と薬種商桐山太右衛門に、管理運営を任ずる達しが出された。それには両者に各15万坪の土地を貸与するので、若干の薬草を幕府に納める外は、市中に販売するようにとある。また土地の一部は、生活の糧のため畑地とすることを認めている。そして万事は正伯が統括するようにと指示している。

正伯と桐山の略歴

丹羽正伯は元禄4年(1691)に伊勢国松坂(三重県松阪市)の医師の家に生まれ、京都に出て医学を学ぶ一方、本草学者稲生若水の門に入り、採薬・製薬の技法を極めた。享保2年に江戸に移るが、これは将軍吉宗の意向によるかともいう。同5年に「採薬使」(薬草見分)に任じられ、箱根・日光・木曽等で薬草を採取した。同7年4月1日に御医師並に任じられ、直後に滝台野薬園の管理を任された。その後も幕府の命により、医薬や物産の本の編術、和薬種改会所の指導、薬種の真偽の吟味等に尽力し、宝暦6年(1756)に死去した。
 
桐山太右衛門は延宝5年(1677)ころの生まれで、江戸日本橋の薬種商であった。薬草について詳しく、やはり諸国に採薬し、また和薬種改会所の設立に尽力した。滝台野薬園を任されて移住、三山・薬円台境に住んだという。薬園の管理運営に尽くしたが、4年後の享保11年に死去して、当地に葬られた。

謎の多いそれからの薬園

滝台野薬園の成立に関する記録は何点かあるが、その後の経緯や運営に関する古文書・記録は、ほとんど知られていない。薬園で何を栽培したかも明確ではなく、ほかの資料からの類推で朝鮮人参・黄蓮・竜胆・砂糖黍・甘藷等を作ったであろうと想定されるのみである。
 
また薬園予定地の内、どのくらいの面積が薬草園になったかも不明である。というのは、丹羽正伯はこの地に時々指導にやって来ただけであり、現地に居住して管理運営の任にあたった桐山は4年足らずで死去してしまったからである。
 
最も栽培したかった朝鮮人参も、環境・土質が合わず駄目であったと想定される。それらの理由で薬園は廃されて畑作の新田村に転化するが、その年代についても現時点では確定できない。
 
そのように、地名・駅名等として今に残りながら、滝台野薬園の実態は謎につつまれたままで、墓地の正伯追悼顕彰碑(万延元年・1860造立)と桐山の墓碑が、わずかに薬園当時を偲ぶよすがである。なお住居表示により、薬園台から薬円台となったのは昭和48年である。

掲載日 令和3年2月9日