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船橋と幕府馬牧

完全放し飼いの牧場

江戸時代の房総の地には、幕府直轄の広大な馬の牧場(馬牧・うままき)が置かれ、江戸後期には小金5牧(まき)佐倉7牧・嶺岡5牧の計17あった。馬牧の支配は小金(松戸市)の野馬奉行の管下の牧と、金ケ作陣屋(松戸市)の野馬方役人菅下の牧に分かれていた。
 
大半の牧は1つ1つが大きく、大人の足でも1日で回りきれないほど広かった。そしてそんなに広大な牧場なのに、馬数は各牧場に200~700頭くらいであった。というのは、全牧場とも厩舎のない完全放し飼いで、餌は自生している草や木の葉であったから、あまり多数だと飢え死にしてしまうのである。しかし、完全放し飼いといっても、時々は見回りや死馬・病馬の処置や、土手の修復等が必要なので、幕府は付近の村の有力者を牧士(もくし)という役職に任命し、牧士が近隣の村人を指揮して、作業や処置にあたった。牧士は名字帯刀を許され、牧関係の職務時は武士の末席に連なる身分で、この付近の農村では最も身分の高い存在であった。

下野牧

下総西部にあった小金五牧は柏・流山・松戸・鎌ケ谷・船橋・習志野・千葉・白井・印西にまたがっていたが、その内の下野牧(しものまき)は船橋市中央部・習志野市北部・千葉市西端部の台地上に置かれた細長い牧場であった。江戸前期の牧場の範囲は必ずしも明確ではないが、きわめて広いものであったと想定される。なぜならば、延宝年間(1670年代)に成立した神保新田・前原新田・滝台新田・丸山新田・上山新田・藤原新田・行田新田の各畑作村は、だいたいが牧場だった場所が開墾されて成立したからである。江戸中期の享保年間(1720年代)の牧場の範囲は、幕府の作成した測量図が残っているので、ほぼ正確に知られる。なお、下野牧は金ケ作陣屋の管下であった。

木戸と野馬土手

牧場では馬が逃げ出して近隣村々の作物を食い荒らしたりしないように、牧場境に高い土塁を築き、一部は深い堀を巡らした。野馬土手と野馬堀である。
 
牧場を横切る道の出入り口は土手が築けないので、木戸(門)や錠場(じょうば)が設けられ、主な木戸には番小屋があって番人がいた。ふだんは木戸は降ろしてあり、人が通る時だけ開けた。夜間は原則として通行禁止であった。
 
その木戸のあった場所で、地名として残ったのが「高根木戸」や「新木戸」であり、錠場の方は「ジョッパ」等と訛って伝えられている。

野馬捕り

野馬捕りは、日ごろは広大な牧場に放し飼いされている馬を、捕込(とっこめ)と称する土手囲いの中に追い入れて、1頭1頭帳簿につけ、新生馬には焼印を押したりするため捕らえることをいう。この時一部は民間に払い下げられる。
 
江戸中期からは、原則として年1回行われ、牧士指揮の下、周辺の村々から動員された何千人もの勢子(せこ)人足が馬を追いかけた。捕込の土手上には幕府役人がすわり、野馬捕りの作業・事務を監督した。
 
当日は近郷の者達が見物に押しかけ、弁当持参で一日中見物した。込の近くには茶店も並んで、近郷の村々にとってはこの上ない行楽の日であったという。
 
下野牧の捕込の跡は咲が丘1丁目にあるが、大半が削平されて、原形をとどめていない。

現存する牧遺構

船橋周辺の牧場の遺構は、明治年間の開墾や昭和30年代以降の宅地化で大半が失われた。
 
それでも牧場境の野馬除け土手、野馬追いの便宜のための勢子土手の一部が残っている。比較的簡単に目にすることができるのは、高根台第二小学校西端の野馬除け土手、二和小学校南側の勢子土手、大穴北5丁目林内の野馬堀等である。
 
成田参詣記1
捕込(とっこめ)に馬を追い入れる図。土手の上には見物人も描かれている(『成田参詣記』)
成田参詣記2
捕込(とっこめ)に入れた馬は1頭1頭帳簿につけて管理した(『成田参詣記』)

掲載日 令和3年3月15日 更新日 令和3年3月16日