宿場町船橋
船橋村と船橋宿
「江戸時代の船橋は、陸上交通の要所に位置していたので、宿場として大いに発展をした」。船橋の歴史について記した本でよく目にする記述であるが、これにはいくつかの注釈・補足が必要である。その一つは、幕府の定めた船橋村は、日常の生活を共にする村とはかなり異なっていたということである。船橋村というのは、船橋五日市村・船橋九日市村・船橋海神村を合わせた総称だったのである。
二つめは少しややこしい話になるが、船橋村は正式には「船橋宿」と名乗れなかったということである。江戸時代の「宿(しゅく)」は、原則として道中奉行が管轄した所のことで、同じような交通業務をしていても、そのほかの所は継場(つぎば)や継立場といった。船橋村はその継場であったが、慣例として船橋宿と呼ばれることが多かったのである。しかし、公式文書には「船橋宿」と書けないので、弘化元年(1844)には交通業務を円滑に進めるため「船橋宿」と唱えさせて欲しいという訴訟を起こしているが、承認されなかったもようである。
交通の要船橋
前段の通りであるが、ここでは船橋は広義の宿場として話を進める。船橋は房総屈指の宿場として繁栄するが、その理由は言うまでもなく当地が、房総三国・常陸東南部から江戸へ向かう街道が集中する、交通の要所に位置しているためであった。千住から小岩・市川を経て来る佐倉道(成田道)が、海神で行徳道と合流し、一方、船橋大神宮西下では千葉方面に向かう上総道(房総往還)と分岐している。さらに佐倉道は前原で御成道(東金道)とも分岐している。つまり船橋は、房総の江戸湾岸では最大の街道集中地点だったので、旅行者でにぎわったのである。
旅籠屋(旅館)の数字を見ると、寛政12年(1800)に22軒、文化15年(1818)に25軒、天保元年(1830)に29軒と増加している。そのほかに幕府公用の上級役人と大名が泊まる本陣も1軒あった。また商家の数も、九日市村だけで60軒近くあったので、初めて江戸に行く者が船橋宿に入って「はや、江戸に着きけるよ」と勘ちがいしたという逸話が伝わっている。
伝馬継立と助郷
宿場というのは単に旅館があるというだけの所ではない。伝馬継立(てんまつぎたて)の仕事に従事する者がいて、その御用のための役所(問屋)が置かれた場所でもある。伝馬継立というのは公用の旅行者と荷物を、次の宿場まで無料で運ぶ制度である。伝馬を使役する場合は、前もってその用務・馬数・人足数等を記した証文を江戸の伝馬役所から出し、宿場ではそれに従って人足と馬を用意した。ただし、証文の馬・人足数で足りない時は賃銭を払って人馬を雇う。それを御定賃銭といって公定の額で、これもあらかじめ数を宿場に通達した。この御定賃銭は一般の人馬賃銭に比べると低額で、宿場にとってはかなりの負担であった。大名の参勤交代の時は一定数だけ御定賃銭で払い、残りは問屋場と交渉して相対賃銭を支払った。相対賃銭は御定賃銭の倍くらいであった。一般の旅行者は伝馬継立とは無縁であり、馬方や駕籠かきと交渉して乗るのが普通であった。『房総三州漫録』という本には船橋の駕籠かきについて「馬方よりも人気悪しく甚だ酒代を貪らる。乗るべからず。」とあり、相対賃銭の実態を物語っている。伝馬継立の業務は、五日市村と九日市村・海神村の二手に分かれて交代で行い、大がかりな時は一緒につとめた。問屋場は五日市・九日市に各1ヶ所あり、五日市は海老川河畔の街道北側(宮本1-22)、九日市は現東魁楼西側(本町4-36)にあった。問屋の業務には公用文書の継立も含まれていた。
なお船橋宿の江戸後期の御定賃銭は、以下のとおりである。
本馬 | 半馬 | 軽尻 | 人足 | 街道 | |
---|---|---|---|---|---|
行徳まで2里8町 | 82文 | 68文 | 46文 | 41文 | 行徳道 |
八幡まで1里半 | 58文 | 46文 | 37文 | 29文 | 佐倉道 |
馬加まで2里 | 74文 | 62文 | 44文 | 44文 | 上総道 |
犢橋まで3里 | 122文 | 102文 | 67文 | 67文 | 御成道 |
大和田まで3里9町 | 122文 | 102文 | 67文 | 67文 | 佐倉道 |
大森まで6里 | 324文 | 282文 | 232文 | 232文 | 木下道 |
船橋宿では、人足15人と馬15頭までは公用の通行者に提供したが、それを越えた時は助郷村と称する近隣の村々へ人馬の用を申し渡した。助郷は制度化されたもので、村々ではそれを拒むことはできなかった。しかもこの制度は近隣の村々からすると、いつ人馬を提供するか不定であり、農繁期と重なったりすることもあってたいへんな負担であった。そのため、時代が下ると次第に遠方の村も加助郷、当分助郷という役目を負わされるようになる。しかし、新規に助郷村に組み入れられることは負担の増加となるので、何とかそれをまぬがれようとして、宿場との間で訴訟沙汰になることがよくあった。五日市村対高根村、九日市村対西海神村外6村、九日市村対上山新田・藤原新田の例等である。農村にとって助郷の負担は年貢に次ぐものであったから、訴訟を起こしてでもその軽減を願ったのである。時代が下ると人馬は出さずに宿場側に金銭を払って人馬を雇って貰うという傾向になるが、負担であることにはかわりない。
船橋村の助郷村々の古い記録には享保6年(1721)の村明細帳があり、「大助」の村として夏見村・金杉村・後貝塚村・前貝塚村・西海神村・山野村・印内村・寺内村・本郷村・二子村・小栗原村・谷村・久々田村・鷺沼村・田喜野井村・三山村・両飯山満村・高根村・米ヶ崎村・七熊村が記されている。江戸後期の村明細帳では九日市村側の大助郷が夏見村・金杉村・前貝塚村・後貝塚村・行田新田・西海神村・山野村・印内村・本郷村・二子村・小栗原村・古作村・上山新田・藤原新田・北方村、五日市村側の大助郷が七熊村・米ヶ崎村・下飯山満村・上飯山満村・三山村・田喜野井村・谷津村・久々田村・鷺沼村・藤崎村となっている。
船橋の海運業
宿場は人の通行のための機能を主眼に設けられたといえるが、一方で物資の輸送を主にして発達したのが港と河岸である。大きな荷物、重い荷物の輸送は馬の背だけでは限度があり、また宿場ごとに積み替えていたのでは非能率的である。その点、船だと馬数十~数百頭分の荷物を1艘で運ぶことができ、しかも宿場ごとに積み替えるという手間が省ける。船橋では五日市村の海老川下流東岸に海運業者の家が並び、穀物・薪炭等の輸送に従事していた。元禄15年(1702)にはすでに6軒の業者があり、江戸後期には6~10軒の業者が営業しており、佐倉藩の年貢米の一部を江戸に輸送していたこともある。この海運業は幕末~明治前期にはいっそう盛んとなり、一時は40軒もの業者が営業をしていた。なお、九日市村にも少数ではあるが海運業者がいた(魚介類専門の運送とは別)。
船で運ばれるものとしては記録の上では年貢米が多いが、瓜・西瓜・薩摩芋・茄子等を江戸へ売り捌くという記事も見られる。その他に船橋村では肥料である下肥を葛西方面から買い入れていたが、その運搬は総て船で行われていた。
十返舎一九「金草鞋(かねのわらじ)」より
掲載日 令和3年3月15日
更新日 令和3年3月16日