唐沢松
むかし、高根村の唐沢には唐沢松といわれる松の大木があった。その大きさはたいへんなもので、江戸からも見えたといわれ、そのために唐沢松と高根の名は江戸でも知られていたそうである。
ところがこの松も栄枯盛衰のさだめは逃れがたく、安永3年(1774)の大暴風雨のため途中で折れてしまい、その後100年近く経た慶応初年(1865)には、3メートルあまりを残すのみとなってしまっていた。そこで村の名主と村の有力者が相談して、名主の家の下男に命じて切らせることにした。
さて、下男が根本を切り始めると、どうしたことか切り口からは血のような液が出て止まらないのである。下男は真っ青になって逃げ帰り、恐れおののいて熱を出して十日あまりも寝込んでしまった。
その後は、誰もこわがって切る者がなかったが、しばらくしたある夜、名主の夢枕に神の姿があらわれ「我は唐沢の松である。我が神体を斎きまつるなら、村人を安全に守るであろう」と告げた。
名主は驚き、夜が明けるのを待って、当時効験が高いと評判の松戸の易者の所へ駆けつけて占ってもらったところ、その松は神木であるからすみやかにまつるべしとのご託宣であった。
そこで一同は丁重にお祓いをした後に松を切り、その松を名のある仏師のもとに送り、神明・八幡・春日の三体の神像をほってもらった。そして村内観行院の僧に開眼式をしてもらい、神明の社に納めた。
その後、明治3年(1870)に、村人はこの松を記念して「唐沢松の魂」の碑を建てた。その碑は今、神明社の林の一角に残されている。
「唐沢松の魂」碑(高根神明社)
ところがこの松も栄枯盛衰のさだめは逃れがたく、安永3年(1774)の大暴風雨のため途中で折れてしまい、その後100年近く経た慶応初年(1865)には、3メートルあまりを残すのみとなってしまっていた。そこで村の名主と村の有力者が相談して、名主の家の下男に命じて切らせることにした。
さて、下男が根本を切り始めると、どうしたことか切り口からは血のような液が出て止まらないのである。下男は真っ青になって逃げ帰り、恐れおののいて熱を出して十日あまりも寝込んでしまった。
その後は、誰もこわがって切る者がなかったが、しばらくしたある夜、名主の夢枕に神の姿があらわれ「我は唐沢の松である。我が神体を斎きまつるなら、村人を安全に守るであろう」と告げた。
名主は驚き、夜が明けるのを待って、当時効験が高いと評判の松戸の易者の所へ駆けつけて占ってもらったところ、その松は神木であるからすみやかにまつるべしとのご託宣であった。
そこで一同は丁重にお祓いをした後に松を切り、その松を名のある仏師のもとに送り、神明・八幡・春日の三体の神像をほってもらった。そして村内観行院の僧に開眼式をしてもらい、神明の社に納めた。
その後、明治3年(1870)に、村人はこの松を記念して「唐沢松の魂」の碑を建てた。その碑は今、神明社の林の一角に残されている。
「唐沢松の魂」碑(高根神明社)
掲載日 令和5年5月1日