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明治の地方制度と船橋

府・藩・県三治制

戊辰戦争のさなかの慶応4年(1868)閏4月、新政府は「政体書」を発表して基本方針を示して政治組織を定め、地方は府・藩・県に分けて統治されることになった。府は旧幕府の城代(じょうだい)・所司代(しょしだい)・奉行の支配地、藩は大名領、県は旧幕府の郡代・代官・旗本の支配地である。船橋地方は下総知県事の管轄下となるが、翌明治2年1月には葛飾県と改称された。ただ西海神だけは小菅県(こすげけん)の管轄であった。
 

廃藩置県

三治制では藩が存続して中央集権制の実効が上がらないため、明治4年7月に新政府は廃藩置県を断行した。当時房総には24の藩があったが、すべて県とされて旧藩主の知藩事は免官となった。同年11月には県の統廃合が行われ、全国3府302県が3府72県に整理された。この時房総は印旛県・木更津県・新治県(にいはりけん)の3県となり、船橋地方は印旛県に属した。
 

千葉県の誕生

明治6年6月15日、政府は印旛・木更津両県を廃して千葉県を新設し、千葉町に県庁を置くことを布達した。ここに千葉県が誕生したのである。

しかし、この千葉県は現在と形が異なり、現茨城県の結城(ゆうき)・猿島(さしま)・岡田・豊田郡を含み、一方では現千葉県の香取・海上(かいじょう)・匝瑳(そうさ)郡は含まないというものであった。

その後、8年5月に新治県が廃され、千葉県と茨城県に分けられ、香取郡等は千葉県に編入された。同時に旧千葉県の利根川以北の部分が茨城県に移管され、ほぼ現在の千葉県の形が完成した。

大区小区制

県の下の行政単位も何度も変わった。

明治4年4月政府は戸籍法を出し、新しく戸籍区を設定し、戸籍吏として戸長・副戸長を置くことを定めた。翌年には数か町村で小区を、数小区で大区を設置し、大区に区長、小区に戸長を置く法令を出した。たとえば九日市村は第1大区3小区等とされたのである。小区内の村数は数村から20数村まであり、まちまちであった。この大区小区は途中で区の組替もあって非常に複雑である。またこの制度は、旧来の町村のつながりや慣習を無視したもので、住民の抵抗を招いた上、実効にも疑問な点があり、明治11年に廃止された。
 

郡区町村編制法

明治11年7月に郡区町村編制法が制定され、千葉県では11月に県下を21郡に編成し、町村を管轄させた。これは江戸時代から当時まで、地域の名称にしかすぎなかった郡を、新たな行政区画として官選の郡長を置き、その下の町村には民選の戸長を置くというものであった。戸長は町村ごとに置かれることになったが、数町村で1名置いてもよいとされたので、後者の場合が多数を占めた。これを連合町村という。主に戸長役場の維持費の問題による。

17年には地方制度の一部改正があり、そのひとつとして戸長役場所轄区域の拡大が行われ、戸長が官選に改められた。
 

市制町村制

明治21年4月に市制町村制が公布された。これには市町村とは「法律上個人と均く権利を有し、義務を負担し、凡市(町村)の公共事務は官の監督を受けて、自ら之を処置するものとす」とあり、市町村が法人で、しかも自治体であることをうたっている。また町村制の規定には、町村長は町村会が選挙し、任期4年、町村会は町村の公民(25歳以上の男子で2円以上の納税者)が選挙し、任期6年とある。

以上のように明治前半の地方制度は、目まぐるしく変化して複雑である。しかし、そこには規模の小さな旧町村を排して、資力のある有力町村をつくるという政府の意図が常に働いている。それがひいては行政効率の向上、中央集権制の強化につながるからである。

 


掲載日 令和5年3月1日