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習志野原と軍隊

牧場から演習場へ

明治政府は成立の当初から、富国強兵を目標にした国づくりを進めたが、そのための一方策として軍隊の演習場を東京近郊でも確保したい意向を持っていた。明治4年(1871)には兵部省から政府当局に対して、軍隊の繰練に広い原が必要なので総州小金原を割り渡してほしいと願書が出されている。これに対して民部省は、小金原では既に開墾が始まり、入植者が移住しているので無理であるが、近隣村々の請地のうちの原野をあてたらどうかと返答している。

村々の請地というのは、江戸時代に牧場内で、肥料用の草を刈ったり、あるいはたき木の木を切る代わりに小額の金銭を幕府に納めた土地で、多くは村の入会地(共有地)として扱われた場所のことである。

結局、民部省路線が採用されたらしく、後に演習場とするのを前提に、6年になって近衛兵の演習が行われたのであった。

「習志野ノ原」の誕生

明治6年4月29日、近衛歩兵の4個大隊と騎兵の1個中隊を引率した明治天皇は、当時小金原の一部で大和田原と呼ばれた原野へ行幸した。参加した近衛兵の士卒の数は2,800人といわれ、陸軍大将西郷隆盛も側に控えた。

演習中は天皇も原野に天幕を張った中で2泊し、雨をついて行われた実戦さながらの演習を統監になった。実戦の総指揮をとったのは、陸軍少将篠原国幹である。

演習が無事終了してしばらくした5月13日に、この演習場を「習志野ノ原」と命名する旨が、天皇の名で仰せ出された。実際の発案者は随行した宮内少輔の吉井友実だと伝えられる。また、習志野という地名は習練をする野の意味で付けられたといわれるが、一説では指揮ぶりがみごとだった「篠原に習え」の意味だともいう。

陸軍演習場の習志野原

当初習志野ノ原とされた原野は、いつの間にか「ノ」をはずして表記されるようになった。

その習志野原が正式に軍用地になった年月には諸説あったが、以下のように過去の文献よりは後年の成立であったことが判明した。

古く『千葉県千葉郡誌』には「明治4年頃より陸軍練兵場と定められ」とあり、『新撰佐倉風土記』には明治5年10月陸軍練兵場がここに置かれたとある。一方、千葉県令柴原和が内務卿大久保利通にあてた7年6月3日付の伺書では「この度繰練場に相定められ」とある。この史料が示す通り、演習場の成立は明治7年夏のことで、それ以後急速に場内の整備、具体的には兵営建物の建設が進められたもようである。

習志野演習場の整備

明治7年9月には、民有地270町歩の買い上げが決定し、早急に実行された。そして直ちに兵舎の建設も進められたようで、8年の地図には第一営~第七営までの多くの建物が載せられている。

演習の兵士ではなく、常駐の部隊が置かれるようになるのは明治31年からで、習志野騎兵連隊が、1個中隊の規模で習志野第一番衙(元自衛隊駐屯地)に誕生した。34年には大久保(習志野市)に新兵舎が完成して移転し、同年末に2旅団の編制が整った。

鉄道連隊と騎兵学校

鉄道連隊というのは戦争の際、戦地にいち早く鉄道を敷設し、兵員や兵器・食料を送る任務を帯びた鉄道兵を養成する組織である。

日露戦争後、その整備・拡大が図られると、明治41年10月に第一・第二鉄道大隊が東京から千葉町に、第三大隊が津田沼に移転した。大正7年(1918)には千葉が鉄道第一連隊、津田沼が第二連隊となる。

千葉県内には鉄道連隊によって長距離の演習線が敷設され、最長のものは千葉・三里塚間のものであった。現在の新京成線の前身にあたる路線は、昭和初年に敷設されている。狭軌の汽車路線であった。

騎兵学校は明治21年に陸軍乗馬学校として創設されたものが、31年に騎兵実施学校と改称されて馬術以外に戦術や兵の指揮・教育をする機関に拡充された。その騎兵実施学校が大正5年12月東京目黒駒場から薬園台の東方に移転されたのである(現自衛隊駐屯地)。翌年9月には陸軍騎兵学校と改称された。明治後期の陸軍では騎兵が中核であったから、習志野に移っても騎兵学校は拡大充実の方向をたどったが、当時は第一次大戦中でありその経験から世界的には自動車・装甲車・戦車に転換の動きが急速に進んでいった。騎兵学校は年を経るにつれ、イベントである「習志野乗馬会」が広く注目を集めるようになり、馬術の国内大会の観を呈するようになった。後には、オリンピックの馬術競技に騎兵学校の教官が何人も出場するようになり、昭和7年(1932)のロサンゼルス大会で西竹一中尉が金メダルを獲得したことはよく知られている。

戦車連隊

騎兵の軍事上の必要性が薄くなると、昭和8年3月に騎兵学校条令が改正され、無線教習隊の新設、騎兵科装甲自動車隊要員の教育等が行われた。12年6月には装甲車隊が戦車隊と改称され、15年には教導隊の編成が乗馬隊・自動車隊・装甲車隊・戦車隊・速射砲隊・通信隊となり、騎兵の比重がごく小さなものとなったことを示している。

これより先、8年に旧騎兵十四連隊跡に戦車第二連隊が進出しているが、戦車連隊は太平洋戦争開始より早い16年9月に南方に派遣されることとなり、11月にはベトナムのカムラン湾に進出した。

演習場の変遷

習志野演習場は全国に知られた演習場で、ここで述べた以外の施設もいくつかあった。

第二次大戦後には、開拓されることになったが、一部連合軍に接収された所が自衛隊に引き継がれている。

しかし一望千里といわれた平原のうちで、面積の広かった成田街道以北の地域はほとんど住宅地に変わって、演習場時代の面影は残っていない。
「成田土産名所尽」より「ならしの松原旧小金原」
「成田土産名所尽」より「ならしの松原旧小金原」



 

掲載日 令和4年5月1日