明治期の教育・学校
1「学制」発布
明治政府は、中央集権的な近代国家の建設には「国民皆学」が必要だと考え、明治4年(1871)に廃藩置県を断行して間もなく、国民教育のプラン作成に着手した。これは旧来の学派学統を越え、身分制も打破した教育を普及させようというものであった。4年7月には国の教育行政の根幹となる文部省を設置して、その準備を進めた。
5年7月に至り、まず「学事奨励に関する仰せ出だされ書」が示された。この中に「必ず邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめんことを期す」という有名な言葉がある。
翌8月に、いよいよ「学制」が発布された。全文109章(後追補で213章)からなる詳細な規定で、小学校に関する部分は次のように要約される。
- 全国を8大学区に分け、1大学区を32中学区、1中学区を210小学区に分け、小学区ごとに1校を設置する(1小学区は人口約600人)。
- 小学校の中核を尋常小学とし、上等下等に分け、各4年とする。
- 上等下等小学とも8級制とし、試験により進級する(つまり半年進級制)。
- 学校の設立・維持経費は原則として住民が負担する。しかし、現実には1小学区1校というのは財政的に無理があり、2~3小学区で1校という場合が多かったようである。
2市域の小学校
学制発布後、印旛県では直ちに準備に取りかかり、5年9月には寺子屋・私塾の廃止を布達し、10月には各小学区ごとに教員適任者を選ばせ、小学科目とその教授法を学ばせる旨触れている。
そのような状況の中で、船橋でも学校設置の機運が高まり、船橋宿では寄付金を募って本庁から教師を派遣してもらう手当とし、11月18日に日蓮宗寺院の行法寺(本町3丁目)を仮学校として開校した(現在の船橋小学校)。これは流山校に次いで、県下2番目の小学校という早期の開校であった。
6年以後になると、市域では次々と学校が開かれるようになる。6年に真名校(宮本)・納谷校(本町)・海神校・夏見校・柏井校(法典)・金堀校・前原校・飯山満校、7年に米ヶ崎校・金杉校・西海神校・印内校・二子校が開校したのである。もっとも、これらの学校の校舎は、ほとんどが寺院を借用したものであり、真名校は了源寺、納谷校は覚王寺、海神校は地蔵院、金堀校は龍蔵院、夏見校は薬王寺、前原校は道入庵、飯山満校は東福寺、米ヶ崎校は無量寺、金杉校は金蔵寺(現滝不動ではなく旧集落内の寺院)、西海神校は吉祥寺、二子校は多聞寺が当初の校舎であった。例外として柏井校が、江戸時代に私塾として近隣に知られた藤原の安川家に置かれたものがある。
明治8年の各校の状況をみると表のようになる。この数字からは就学率はうかがえないが、当時の千葉県の数字は男子58.6パーセント、女子13.2パーセント、平均35.7パーセントで、女子の就学率はきわめて低率であった。
校名 | 校舎 | 生徒 | 教員 | ||
男 | 女 | 計 | 男 | ||
船橋学校 | 同 | 56 | 49 | 105 | 2 |
真名学校 | 同 | 108 | 29 | 137 | 2 |
海神学校 | 同 | 66 | 31 | 97 | 1 |
夏見学校 | 同 | 40 | 6 | 46 | 1 |
納谷学校 | 同 | 73 | 70 | 143 | 2 |
米ヶ崎学校 | 同 | 48 | 5 | 53 | 1 |
西海神学校 | 同 | 28 | 19 | 47 | 1 |
印内学校 | 同 | 31 | 8 | 39 | 1 |
二子学校 | 同 | 94 | 35 | 129 | 1 |
柏井学校 | 同 | 79 | 4 | 83 | 2 |
金杉学校 | 同 | 52 | 6 | 58 | 1 |
計 | 675 | 262 | 937 | 15 |
(『船橋市史現代篇上』から一部訂正)
3教育令と改正教育令
学制による学校教育の推進は、当局の懸命の努力にもかわらず、思うような成果が上がらなかった。その原因としては、(1)過重な学校費の負担に堪えられない家がかなりあること、(2)生徒の多級化に追いつかない教員不足、(3)欧米風の教科内容に対する親の不満等が挙げられる。
特に学校費のことでは、折からの地祖改正事業による出費等と重なり、一部地区では学資金反対のため、子どもを登校させない運動まで起こった。
当時、世情も西南戦争後の動揺期であり、政府部内でも学制を改正して民衆の不満を抑えるべきとする意見が強まった。
そして12年9月に、住民の負担を減らし、一方では教育に対して住民の自発性と責任を期待した「教育令」が公布された。その内容は
- 就学は4か年以上とするが、年4か月以上就学すれば可とする。
- 資力の乏しい地方は教員の巡回教授でも可とする。
- 私立小学校は設置しなくても可とする。
等であった。
しかし、その結果は現実には就学率の低下を招いて公立学校は停滞し、中には廃校に至るものさえあった。そのため、政府はわずか1年で教育令を改めることとし、13年12月に「改正教育令」を出した。これは国・県の町村に対する統制を強めたもので、町村は独立町村あるいは連合町村で、1校もしくは数校を設置するよう厳格に規定している。また就学期間は最低3か年に短縮されたが、授業はほぼ年間常時行うともしている。さらに学科の冒頭には修身が置かれている。
4 義務教育制の確立
明治18年、太政官制が廃止されて内閣制度が発足すると、文部大臣森有礼は翌年に次々と学校令を公布した。
そのうちで地方と最もかかわりのあるのが「小学校令」である。これには、(1)小学校は尋常小学校(4年)と高等小学校(4年)とすること、(2)従来の3か年義務制を4か年とすること、(3)経費は授業料本位とし、不足する場合は町村費をもって補うこと等が盛り込まれている。
明治22年に町村制が施行されると、新町村ごとに学校数や位置が設定され、学校体制が確立されていった。また校舎も寺院借用から独立校舎建築へと転換されるようになった。
さらに就学率は県内でも向上の一途をたどり、26年に60パーセント、30年に70パーセント、35年ついに90パーセントを突破した。
5初等教育の充実
明治27年(1894)に起こった日清戦争は日本の勝利に終わったが、国力の充実には国民の基礎学力の向上が不可欠だということを政府に再認識させた。その結果、明治33年に小学校令が全面改正され、同時に「小学校令施行規則」が定められた。尋常小学校は4年とされ(従来は3年のものもあった)、これを義務教育として保護者に就学を義務づけた。
その結果、35年には国民の就学率は90パーセントを越えるようになった。また、尋常小学校4年以後に、2年制の高等小学校を併設した尋常高等小学校の設置を奨励し、就学年限を延ばすことに意を注いだ。37年には国定教科書の使用が始められた。
その後、明治41年4月からは義務教育の6年制が実施されたが、44年における就学率は男子98.8パーセント、女子97.5パーセントに達し、明治初期に政府が意図した「国民皆学」がほぼ達成された。
そのような国策に対応して、全国で学校敷地の拡張・校舎の新築と増改築が進められた。市域でも葛飾尋常高等小学校の例をみると明治33年に運動場拡張、35年に校地拡張、36年に校舎1棟増築、41年に校舎増築、43年校地拡張、大正3年(1914)平屋10教室と第三校舎の増築と立て続けに施設の充実をはかっている。
以上のように、明治初期には男子でようやく過半数、女子では7人に一人弱という低い就学率であったものが、40年を待たずに初等教育では世界のトップクラスの教育普及国に変貌したのであった。