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江戸時代の教育

江戸時代の教育

江戸時代の人口の8割以上を占めていた農民の文化度はかなり高かった。その根底にあったのが初等教育の普及だ。その時代の初等教育の場はもちろん寺子屋。もっとも江戸時代といっても、270年もの長さがあるので、仮に90年ずつで前・中・後期に分けると、前期には農民で読み書き・算盤(そろばん)ができるのは村役人層で、ごく限られていたと想定される。

 

一般の農民・町人の子弟に手習いが普及するのは、江戸時代中期から。そして時代が下るにつれ、就学率は高くなる。
師匠は初めは僧侶が圧倒的に多く、寺子屋の名にふさわしかったが、時代が下ると、僧侶以外の師匠が増え、天保年問(1830~44)には僧侶を上回っている。
師匠は僧侶の場合はもちろん副業であるが、僧侶以外も専門職業の師匠は少なく、社会奉仕的に安い束脩(そくしゅう=授業料)で教えていた者が多かった。ある例では、五節句ごとに白米二升が束脩だった。

 

弟子は寺子屋というくらいだから「寺子」と呼ばれたかというとそれは稀で、「筆子」(ふでこ)というのが多く、「筆弟」(ひってい)という場合もある。

筆子塚

筆子塚というのは教えを受けた筆子が、師匠に感謝して造立した墓碑や顕彰碑等の総称。船橋では38基の存在が知られている。
最も古いのは坪井町安養寺の「日振大徳」の筆子塚で、宝永元年(1704)の銘がある。船橋の場合は以下古い順に、12番目までがすべて僧侶。天保年間からは上層農民の師匠が大半となり、女性の師匠が2基ある。

 

ここで注意したいのは、師匠の誰もが、筆子塚を造立されたわけではないということ。師匠の中には村一番の資産家という者もあり、貧しい筆子からの寄付は遠慮したともいう。ある研究者は、現存する筆子塚の5倍は師匠がいたのではないかと想定している。したがって、寺子屋の数もかなり多かったと考えられる。

師匠あれこれ

三山の二宮神社脇に「耳なくて きかるるものよ 閑古島」という俳句を刻んだ碑がある。詠んだのは遠近庵三市(をちこちあんさんいち)という俳句の師匠。壮年時代、病気で耳が聞こえなくなってから、俳句や手習いを教え出した人だという。


馬込町の旧安立庵墓地の僧・日現の筆子塚には、「鎌ヶ谷 丸山 道野辺 馬込沢 筆子中」と刻まれている。自村だけでなく周辺村々から通う筆子も多かったことが偲ばれる。日現の筆子塚は香取郡栗源町高萩の本興寺にもあるそうで、任務地の先々で数授していたことが知られる。(川崎喜久男『筆子塚研究』)
藤原の安川塾は文化8年から明治5年まで、親子4代にわたって61年間も近隣の子弟の教育に携わった。延べの筆子数は896人、そのうち女子も60人ほどがいた。

寺子屋の教育内容

寺子屋で学ぶものは、いわゆる「読み書き算盤」が中心。数え歳の9歳前後に登山(入学)し、4年間ほどで下山(卒業)するのが多かったが、安川塾には中等教育の内容に進み、10年間も在塾している者がいた。習字は国・郡・地名を書いて覚えるものなどから始まり、次は往来物という手紙の書き方を習う。男子は「実語教」「今川往来」「庭訓往来」など、女子は「女今川」「女大学」などをテキストにした。授業は集団指導より、個人指導が中心だったという。


そうした初等教育が普及し、就学率は幕末には農村でも4割~6割に達した地域がある。だから、日本で明治以後の近代化が成功した原動力は、寺子屋だとする見方もある。


日本人の教育熱心というのは根が深いのだ。











 


掲載日 令和6年7月7日