船橋市内の中世城館址
中世城館と城主
中世の現市域には、いくつもの城や館(やかた)が存在した。ふつう城というと、そびえ立つ天守閣や高い石垣などを連想するが、それは中小土豪が淘汰された戦国時代末期以降に出現したもので、市域には存在しない。船橋周辺の城は空堀と土塁をめぐらし、崖を巧みに利用したものが多く、規模も大きくない。大半は戦国土豪と称される小領主の城であったと想定されるものである。
現在市内で中世城館址といわれている場所は16ヶ所もある。しかし、それらのすべてが確実に城館址かというとかなり疑問である。というのは、それらのうち遺構らしきものが残っているのは半数ほどで、あとは城があったという伝承や、地名や地形からの想定によるものもあるからである。ではそれぞれの城館址について検討してみよう。
八木ヶ谷城址
八木が谷5丁目の長福寺周辺である。現在は寺南隣の王子神社の建つL字型の高い土塁が残るほかは、断片的な低い土塁が寺周囲に見られる。かつては一の堀から三の堀まで残っていたそうであるが、現在はほとんど埋められている。
城主については千葉胤直の子胤宣(たねのぶ)が、八木ケ谷式部少輔(しょうゆう)胤宣と名乗ってここに居城していたのが、足利成氏方に攻められて落城したという説が地元にある。
しかし、当時の状況や文献から見て、その可能性はほとんどない。また松戸市の『本土寺過去帳』に見える八木ケ谷兵部卿良宗(ひょうぶきょうよしむね)を城主に想定する説もあるが、良宗は現在の柏市に居住したと思われるので疑問である。
小野田城址
小野田町の安房神社と周辺を含む場所である。横矢を射かけて敵をはさみ討ちにする構造の土塁が、民家の西側に残っている。
金堀城址
金堀町の台地先端部の殿山という場所にある。昭和40年代までは市内の城址で最もよく遺構が残っていたが、土取りのため大半が崩された。『船橋市史前篇』に昭和30年代の実測平面図が載っている。
楠ケ山館址
楠が山町字大山の山林にある遺構である。ここは八千代市吉橋の香取(かんどり)山城が落城した際、重臣の吉橋一族が逃げて住んだ場所と伝えられ、土塁が複雑に残っている。
その一部は戦闘用の機能をもつことがうかがえるが、ほかの土塁は単なる屋敷の土手のように見え、後世の改造かどうか検討材料である。
楠ケ山城址
旧楠ケ山の寺で、現在大穴北5丁目となっている青蓮院(しょうれんいん)周辺とされている。しかし、寺の北と西に残る土塁は城館址の土塁としては疑問で、外側に堀の痕跡も見あたらないことから、城址の可能性は乏しいようである。
小穴城址
旧古和釜町で現在松が丘2丁目緑地公園周辺である。かつて方形の土塁が見られたそうだが、城址であったかどうかは未詳である。
坪井城址
坪井町の字中井台にあった方形の城址だが、戦前に削平されている。台地縁から奥に入った立地のため、やや時代が上る遺構と考えられる。
酒山砦(さかやまとりで)址
習志野台団地北東端辺にあったといわれ、後藤左近亟源頼勝(さこんのじょうみなもとのよりかつ)が城主であったが、永禄7年(1564)に里見方の正木軍に滅ぼされたとされている(『二宮郷土読本』)が、当時の記録は残っていない。高根城址
高根町字城高山(じょうこうやま)周辺で、台地上と台地中段に土塁や堀が残っている。台地上の場所は番場(ばんば)と呼ばれ、馬場のことかと思われるが、土塁の痕跡は複雑で、城の中核の可能性がある。
中段は城主の日常生活の館とみられる。城主は高城山城守(やましろのかみ)とも高城右京亮(うきょうのすけ)とも伝えられている。
金杉城址
金杉2丁目の台地西南端部にあり、土塁がL字型に残っている。かつては二重土塁が見られたそうである。
米ケ崎城址
米ケ崎町の台地西端部にあったといい、城の内の字があるが、土取りで跡形も残っていない。現在見られる土塁は城址の遺構ではない。
飯山満城址
飯山満町3丁目の台地縁にあったというが、削平されている。夏見城址
夏見6丁目の長福寺周辺である。寺右奥に土塁が残り、城への上り口である虎口(こぐち)と見られる部分は横矢かけのため、土塁の片方が張り出している。城主は永禄7年に戦死した夏見加賀守政芳(かがのかみまさよし)とされている。
船橋城址
市場1丁目の中央卸売市場東部分にあり、水城(みずじろ)だったのではないかというが、現時点では全く不詳である。花輪城址
東船橋7丁目の茂侶(もろ)神社周辺といわれる。戦前に歴史雑誌『武蔵野』でアイヌの城の「チャシ」と報告されているが疑問である。
小栗原城(城之台城)
東中山駅西辺にあったというが未詳である。城主は小栗判官満重(おぐりはんがんみつしげ)と伝えられるが、小栗判官は全く伝説上の人物である。
以上のように、市内の中世城館址はほとんど詳しい事歴を知ることができない。
現在残るものは、大半が戦国時代後半の遺構と考えられる。そしてこれらも近世の幕明け前に廃され、二度と使用されることはなかった。
掲載日 令和4年8月1日