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トップ歴史放談船橋の歴史> 千葉氏と源頼朝-房総中世史の幕明け-

千葉氏と源頼朝-房総中世史の幕明け-

千葉氏の成立と試練

平安時代中期、房総三国を「亡国」に近い状態にまでした平忠常の乱は、長元4年(1031)に忠常自らが追討使源頼信のもとに出頭して降伏し、幕を閉じた。そして、どんな降伏条件があったものか、子息の桓将(経政・常将)らは処罰を免れて、子孫は上総氏や千葉氏といった、鎌倉幕府樹立の担い手となっていく。

まず、上総氏は頼朝の政権獲得の過程で、当主の広常が謀殺されてしまったため、以後の歴史書や系図で不当に扱われてきた。しかし、近年の研究によれば、平安末期ごろは千葉氏よりはるかに大きな勢力を持ち、頼朝挙兵時には東国でも群を抜いた大豪族であったことが解明されている。ただし、上総氏は船橋とはほとんどかかわりがない。

一方の千葉氏は房総中世史の主役であり、船橋の中世も千葉氏を抜きにしては語ることができない。しかし、千葉氏がその主役になるまでには、数々の試練をくぐり抜けなければならなかった。

忠常の子孫がいつ千葉氏を名乗るようになったか明確ではないが、曽孫にあたる常兼か、その子常重の代ころであろうと考えられる。そのころ本拠地を千葉庄(ちばのしょう)に定めたと想定されるからである。

しかし、常重・常胤父子の代には所領のうち、相馬御厨や立花庄(東庄)を、下総国司藤原親通(ちかみち)によって没収されるという困難な状況に追い込まれてしまった。官物未進(租税滞納)という理由からである。千葉氏にとっては寝耳に水の言いがかりであったかもしれない。そのため父子は、両荘園の回復をはかって長期間奔走したが、懸命の努力にもかかわらず、荘園は源義朝の手を経た後、義朝滅亡後には藤原親盛(親通の子)から譲り受けたと主張する佐竹義宗に奪われてしまった。

当時は平清盛の平氏政権の支配が関東に及んだ時期で、下総国の目代(国司代理)も平家方であり、前記の親通の孫で下総に勢力を広げた藤原親政は平忠盛(清盛の父)の女婿である。そのように、平家方の親通系が土着する過程で、最も被害を受けた在地領主が千葉氏であった。

源頼朝の挙兵と敗走

そのような千葉氏にとって、深刻な在地の状況を打開するための願ってもない機会が、頼朝の挙兵であった。平治の乱(平治元年・1159)で父義朝が敗北し、伊豆に配流されていた頼朝は、平家方の来襲を見越して挙兵するが、それに先駆けて父の代からつながりのある千葉氏らに、味方となるように使いを送っていたと考えられる。平氏政権下で苦境にあった千葉常胤は、その要請に一族の命運をかけて応えたのである。

頼朝の挙兵は治承4年(1180)8月17日、山木館(やまきやかた)を襲撃して始まる。ところがその緒戦の勝利もつかの間、23日の石橋山合戦で大庭景親軍に大敗を喫してしまった。そして命からがら山中を逃げのびて、28日に神奈川県真鶴岬から小船で安房に向かい、翌日鋸南町(館山市説もある)にたどり着いた。

頼朝房総の地で再起

そのように“敗軍の将”として安房に逃れた頼朝が、一か月余り後の10月6日には、大軍を率いて鎌倉に入り、新たな武家政権づくりにとりかかるという奇跡の再起劇を演じる。その再起劇は房総の地を舞台に行われたものであり、上総氏・千葉氏の協力なしには成就しなかったと断言できよう。

ところがこの時代の歴史を知る基本文献である『吾妻鏡』の、頼朝房総滞在時代の記述にはかなり矛盾があり、日付も安房から上総に入った9月13日から、隅田川を渡って武蔵に入る10月2日までは疑問点が数多くある。そこで日付を省き、またほかの資料を参照して、その間の動きを追ってみよう。

8月29日に安房に着いた頼朝の周囲には、おいおいと三浦氏らの味方軍も集まり、頼朝らは安房国の家人の安西景益(かげます)の館に一時滞在した。その間に小山氏や葛西氏らの関東豪族に参向を求める書状を遣わし、上総・千葉氏にも再度参軍要請の使いを送って承諾を得ている。すると間もなく、上総広常・千葉常胤とも軍を率いて上総で頼朝に面会した。その直後、平家方の藤原親政軍が千葉庄を攻撃したが、千葉・上総連合軍に撃退された。数日後、頼朝はいったんは下総国府(市川市)に入ったが、関東諸豪族の動静を見定めるため、鷺沼(葛飾区?)の館でしばらくの間滞在し、大勢を有利と判断した後で、武蔵国を経由して、先祖ゆかりの地鎌倉に入った。その味方軍を増やして大勢を有利に導いたもとは、言うまでもなく上総氏と千葉氏の軍勢であった。しかし、この時期の船橋市域については記録がなく未詳である。

掲載日 令和3年8月1日