船橋浦漁業の沿革
船橋浦とは
船橋浦は、現在東京内湾奥部で唯一本格的な漁業を行っている地区である。近世(江戸時代)の江戸内湾には漁村が各所にあり、何万人もの漁民が自浦とそれに続く海で、魚介類を獲って生活していた。その状況は多少は様変わりをしながらも、昭和前期まで続いた。
ところが、戦後の高度成長期の埋め立てと、首都圏人口の急増による海水汚染によって、漁業地区・漁業従事者は減り続けて、現在は数ヶ所で細々と営まれているのみである。その中にあって、年間数千トンの生産を上げる船橋漁業は、特筆に値する存在である。
御菜浦船橋
船橋浦漁業の歴史は古く、本格的な漁業地帯になってからでも三百数十年の歴史を有する。江戸前期の船橋浦は、将軍家の御台所へ魚を献上する御菜浦(おさいのうら)として、現千葉県域内湾では傑出した存在であった。その献上御用については、元禄16年(1703)の『御菜御肴差上通(おさいおさかなさしあげかよい)』という記録がわずかに1冊残り、短期間ではあるが魚の種類と数が知られる。魚の献上は原則月3~6回で、たとえば9月25日は、1日4口分の計が次の数字になる。〔石ガレイ12枚・コチ8本・キス57・イナ52〕献上魚の種類は上記のほかに、ナヨシ・藻ガレイ・ハタ白・ホウボウ・アジなどであった。これが当時の船橋浦近辺で獲れる高級魚という訳であろう。
地震の地変で不漁に
ところがその年の11月22日の大地震で、船橋浦の魚献上は中絶してしまう。海底の地形が変化して、魚があまり獲れなくなってしまったのである。そのため止むなく翌年から、魚献上から金納に代えてくれるよう願い出て許可を受けた。以来、金納を続けたのだが、その間船橋浦では他地区からの密漁者が跡を絶たない状態となり、始末におえなかった。将軍家に御菜献上をする浦という権威がなくなったことが大きな理由であろう。そこで船橋漁師は、今は魚も戻って獲れるようになったので、以前のように御菜献上にしてほしいと、何回となく願書を提出したが、その願いは聞き届けられることがなかった。
絶えない漁場紛争
船橋浦に限らず、内湾では絶えず漁場紛争が繰り広げられたが、その多くは先発漁村に対して後発漁村が権利の拡大を図って起こしたものである。先発の船橋浦は広大な漁場を占有しており、東は鷺沼村(習志野市)沖の落之澪(おちのみよ)、西は湊村(市川市)沖から堀江村(浦安市)沖にのびる貝が澪まで櫂(かい)の立つ深さまでを自浦だと主張していた。
その漁場西部に三番瀬という内湾有数の貝の繁殖場があり、そこで密漁をめぐる紛争が多発したのである。相手側は現浦安市域・江戸川区域の漁村のことが多かったが、もっと遠い漁村の場合もあった。
紛争の中には、海上で乱闘になるものもあり、文政7年(1824)の紛争では、相手の宇喜田村・長島村漁師(江戸川区)が徳川御三卿の一橋家御用の幟を立てていたのを奪ってしまい、その上、船に同乗していた武士を殴ったとして、船橋漁師総代達が入牢させられて牢死してしまった。現在2月28日に行われる大仏追善供養は、その供養の行事だという(『船橋漁浦記事』による)。
船橋浦の漁法
船橋浦漁業の特色として、漁法の数がきわめて多かったことが上げられる。弘化5年(1848)の書上には六人網・打瀬網・鵜縄網・投網など、網漁10種類と縄船という釣漁が記されている。また昭和25年の記録では網漁17種類・釣漁9種類・雑漁2種類・貝漁・海苔養殖が上げられている。近・現代の船橋浦
近代の船橋浦漁業の最大の変化は、海苔養殖が冬の主役になったことであろう。近世には船橋浦では海苔養殖は行われず、明治30年代になって開始された。それが急激に普及し、特に昭和30年代には市町村単位で全国上位の生産枚数を上げていた。昭和30年代には、船の動力化が進み漁獲高も飛躍的に増加した。昭和43年の調査では漁業経営体数は817、内専業が740であった。
そのような隆盛を誇った船橋浦漁業が転換を余儀なくされたのは、昭和40年代末である。前記のように埋め立ての進行と、海水の汚染によって首都圏の漁業は苦境に立たされたのである。そして船橋浦でも昭和48年には、沿岸漁業はその漁業権を放棄するの止むなきに至った。漁業経営体数は53年の調査では180と激減したが、それでも奥内湾では最大の数であった(平成10年は125、平成20年は81、平成25年は50)。
昭和末~平成の船橋浦漁業の魚種は、沖合漁業の二艘まき網・小型底曳網・刺し網の魚漁、それに海苔養殖と貝漁である。昭和50年代以降は機械化が一層進み、小型底曳網・海苔養殖ともひとりで操業可能になっている。
現在の船橋浦漁業は従事者こそ激減したが、全国一位の漁獲をあげたスズキに象徴されれるように“大都市の真っ只中の漁業地”として注目されている。
掲載日 令和3年7月1日