徳川家康と船橋
歴史上の有名人の中で、船橋と最も関係が深いのは徳川家康である。
天正18年(1590)8月、豊臣秀吉の命令で関東に移された家康は家臣団の配置を済ますと、翌19年には領内の有力寺社に寺社領の寄進を行った。11月に一斉に行われ、千葉寺(100石)等とともに、舟橋郷の神明(意富比神社)が50石の土地を寄進された。
次に、家康の命により慶長19年(1614)に造成された御成街道(東金街道)は、船橋を起点として工事が行われたことが広く知られている。通説では、それは次に記す東金周辺の鷹狩りにからむものとされている。
鷹狩りを好んだ家康は東金周辺での狩りを2度(慶長19年1月・元和元年11月)催したが、その往復の都度船橋を通った。そして家康は船橋に御殿を整備させ、そこに宿泊している。2回目の狩の帰途、元和元年(1615)11月25日のことである。これは確かな記録のある史実である。
しかし、地元の後世の記録や伝承からは家康と船橋にまつわる話はもっと多い。
まず、船橋漁師は江戸前期に将軍家御台所に、月数回、鮮魚を献上していたが、これは家康が当地へ来たときに魚を献上して以後、家康直々の命令で通例になったのだという。また船橋大神宮の例祭で催される相撲も、家康に子どもの相撲を見せて喜ばれたのが始まりだという。
そして、最も興味深いのは、家康が船橋御殿に宿泊した日、船橋の通りが大火で全焼してしまい、その時、家康が鉄砲で命を狙われたという話である。家康一行が宿泊した夜に、船橋の通りが大火事になったというのは史実である。しかし『徳川実紀』では「今夜船橋市中失火し、民居悉く焼失すといへども、御旅館は恙なし。」とある。命を狙われたというのは後世の作り話なのか、「火のない所に煙は立たない」話であるのか、郷土史の謎のひとつである。
さらに、船橋大神宮内の常磐神社は家康・秀忠・日本武尊を祀るとされるが、ここの家康像の胎内には家康の歯がおさめられているという。江戸時代、多くの旗本・御家人が船橋大神宮に参詣にやってきた。その主目的は“東照神君家康様”が祀られている常磐神社にお参りすることであった。その影響は大きく、文政7年(1824)に江戸の町人、竹村立義が著した『鹿島参詣記』中の挿絵「船橋大神宮図」では、常磐神社のことを「東照宮」としている。
江戸時代の船橋人にとって、家康との関わりは自慢の種であったが、江戸人にも船橋と家康は深く結びつけてとらえられていたのである。